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2012/09/17

2012年夏季調査の目的

 本日(9/17)、シャー・アブドゥル・ラティーフ大学(SALU)にて、今回の調査についての日程や方法を相談しました。
 今回の調査の目的は、ヴィーサル・ヴァレー地区遺跡群の年代を確かめることです。
 このために、大きく2つの調査を行ないます。

 ひとつめは、遺跡群が形成され、残されている地形=砂丘の年代を知ること。このために、遺跡群が広がる砂丘の全体を踏査して、その状態を確認しながら、砂丘の砂のサンプルを採取する地点を選定します。必要に応じて、斜面を削ったり、トレンチ(試掘坑)を掘り下げます。採取したサンプルは、光ルミネッセンス法による年代測定を実施します。これは、砂丘砂に含まれる石英粒子を対象として、それが埋没した年代を明らかにするものです。また、地点ごとに、砂粒の大きさの割合や含まれる鉱物の分析を行ないます。
 これらの年代測定や分析は、砂丘が、いつ頃、どのようにできたのか、またその後、どのような変化を被ったのかを明らかにするものですが、必ずしも遺跡そのものの年代を明らかにするわけではありません。砂丘が形成され、移動したり、削られたりする過程の中で、どのように遺跡や遺物が残されたのかを確かめなければなりません。
 もちろん、そのための調査、分析も実施する予定ですが、まずは、対象となる砂丘についてその形成の年代と過程を把握することが出発点になるのです。
 ...と言っても、何のことか分かりづらいですよね。追って、もう少し詳しく解説したいと思います。
 また、ヴィーサル・ヴァレー地区にはおもに旧石器時代(10~3万年前くらい:中期~後期旧石器時代と推測しています)の遺跡が、砂丘の頂部、斜面から砂丘間の凹地に残されていますが、10kmほど北北西のドゥービ地区の砂丘には中石器時代(1万年~8千年前くらい?)の遺跡が、また東~北東のナラ川沿いの砂丘には新石器時代の遺跡が残されています。こうした、明らかに年代の異なる遺跡が残されている砂丘についても、年代や形成過程を知るための調査、分析が実施できるかどうかを確かめることも、今回の滞在期間中に行ないたいと考えています。ヴィーサル・ヴァレー地区だけでなく、一帯の砂漠の環境がどのように変化し(または変化せず)、その中で人類がどのような適応を遂げ、生活していたのかを知ることが、将来的な目標の一つだからです。
(写真は、2012年2月に予備的な発掘調査をした第85地点。比高差5mほどの小丘の上に石器集中部が残されています)

ふたつめは、考古学的に遺跡の年代を推定するための材料=特徴的な技術や形態を示す石器を表面採集により収集することです。ヴィーサル・ヴァレー地区で見つかっている100近い地点のうち、いくつかの地点を選定して、1×1mの範囲に残されている石器を一定数量以上ずつ拾い集めます。そして、そこに含まれる石器の型式、点数、細かな特徴を確認します。
 この方法では、数値的な年代を知ることはできませんが、近隣地域の資料と比較することで、おおよその年代、時代の目星をつけることは可能です。また、石器の型式、その組み合わせは、石器を使った生活の内容を復元するためにも重要な手がかりとなるでしょう。

 今回は、この二つの方法中心に、さらにいくつかの記録・分析方法を組み合わせて、ヴィーサル・ヴァレー地区に残された旧石器時代遺跡の実態を解明するための調査に取りかかります。
 現地調査は、明後日9/19から開始する予定です。

2012年度夏季調査がはじまりました

 事前にお知らせしていなかったので唐突ですが、2012年度夏季調査を開始しました。これから、約2週間の予定で、日本からは野口(考古学)、下岡(年代測定)の2名が参加、パキスタン側のマラー教授、ヴィーサル教授らと、分布調査、年代測定および堆積学的分析のためのサンプリングを行ないます。
 日本から、調査地のあるハイルプールまで、今回は2日がかりの移動でした(下岡さんは日本国内の移動があったので3日がかり)。まずは、成田から、バンコク経由でカラチまで。今回は乗り継ぎが良かったので、日付けが変わらないうちにカラチに到着です。乗り継ぎ待ちの2時間を入れて、合計14時間の移動です。
 そして、そのままカラチ泊。写真は、ホテルの朝食です。なかなか豪華なバイキング形式。早速、カレーです。
 翌日は、夕方の国内線でカラチからサッカルまで移動。双発のターボプロップ機(ATR42)で、飛行時間は1時間ちょっとなのですが、途中、モヘンジョ・ダーロ空港を経由するので、約2時間かかります。カラチ発が1時間弱遅れたので、離陸してすぐに日没となりました。
 写真は、サッカル空港に降り立った搭乗機。荷物もすべて無事到着。空港までマッラー教授に出迎えていただき、途中、教授のお兄さんの経営するレストランで夕食をとった後、シャー・アブドゥル・ラティーフ大学のゲストハウスに投宿しました。ここは、エアコン、WiFi完備できわめて快適です。
 パキスタン全土は、先々週~先週(9月第1~2週)にかけて、モンスーン後半の集中降雨に見舞われ、一部で洪水や土砂災害の被害があったそうです。ハイルプール市内も、西~南を流れるミルワー運河が増水して一部の地区が冠水したとのこと。大学までの途上、車窓から、まだ冠水している畑や住宅街の中の空き地が見られました。
 依然として湿度が高く、曇り空ですが、もう雨は降らないようです。
 本日(9/17)は、セキュリティーの登録などもろもろの手続きと、マッラー、ヴィーサル両教授と調査の段取りについての打ち合わせです。フィールドへは、明後日(9/19)から出る予定です。
 引き続き、調査の進捗状況など、本ブログで報告しますので、期待してお待ちください。

2012/09/08

南回りルートの考古学-分かっていること/分かっていないこと(4)

 少々間が空いてしまいましたが、南回りルートの考古学について引き続き解説したいと思います。さて、前回は、考古学(石器技術)と化石人骨の組み合わせについて、2005年頃までに分かっていたことを模式的な編年表に整理してみました。ここにもう一つ、重要な出来事を付け加えておきたいと思います。およそ7.5~7.3万年前に起こった、トバ火山(現在のインドネシア北西部スマトラ島に所在)の新規大噴火(YTT: Younger Toba Tuff*)です。*Toba Tephraと標記される場合もあります。
アフリカ南部アフリカ北部レヴァントアラビア南アジア東南アジアオーストラリア
12万年前石刃
細石器
ルヴァロワルヴァロワ(未到達)
8万年前石刃
細石器
ルヴァロワルヴァロワ(未到達)
7.3万年前*トバ火山大噴火(YTT)
6万年前石刃
細石器
ルヴァロワルヴァロワ(未到達)
4万年前石刃
細石器
ルヴァロワルヴァロワ不定形石器不定形石器
3万年前石刃
細石器
ルヴァロワ石刃
細石器
石刃
細石器
不定形石器不定形石器
*トバ火山新規大噴火の年代は、7.5~7.3万年前とされています。

拡大表示(Google Map、別窓)

 Google mapにトバ火山と、新規大噴火の噴出物(火山灰)の検出地点を落としてみました。青は陸上の堆積物、黄色は海底コアからの検出です(位置は「だいたい」で、精確ではありません)。見ての通り、東は南シナ海から、西はパキスタン沖のアラビア海まで分布しています。インドのいくつかの地点では、一次的な降下火山灰層の厚い堆積(最大1m)が確認されています。さらに、グリーンランドの氷床コアでも、トバ火山の新規大噴火の年代に硫化物の濃度が急激に上昇することが知られており、噴火の影響によると考えられています。まさに人類が経験した中で最大規模の噴火だったのです(こちらもご参照ください:高橋正樹「破局噴火」日本地球惑星科学連合ニュースレター(JGL)6-3:3-6ページ)
画像:現在のトバ・カルデラ(ランドサット画像)Wikimediaコモンズより(http://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Toba_zoom.jpg

 この巨大噴火が人類史に与えた影響を最初に論じたのは、S.H.アンブローズ(Ambrose)です。1998年の論文では、遺伝学が示唆していた同時期の現代人の急激な人口減少の可能性(ボトルネック)やアフリカにおける遺跡数の減少などを挙げて、トバ大噴火の影響で生じた急激な気候の悪化、すなわち「火山噴火の冬」が、現代人ホモ・サピエンスに大きな打撃を与えた可能性を指摘しました(Ambrose, S. H.(1998) Late Pleistocene human population bottlenecks, volcanic winter, and differentiation of modern humans. Journal of Human Evolution,vol.34: 623-651)。

関連記事

2012/09/01

速報・インダス考古学に関する国際会議


 前回のポストから少々間が空いてしまいましたが、その間に、下記の国際会議の開催が決まりました。どこよりも早く、お知らせします。

New Horizons through novel discoveries in Indus civilization: International Conference on Indus Archaeology.
(Held at Shah Abdul Latif University Khairpur Sindh, Pakistan from February 12th 2013 to February 16th  2013). 

最新の発見にもとづくインダス文明研究の新展開-インダス考古学国際会議
(2013212日~16日、シャー・アブドゥル・ラティーフ大学、ハイルプール、パキスタン)

 会議のタイトルは「インダス文明」となっていますが、その中に「石器時代の考古学」というパネルが設けられ、旧石器~中石器時代を対象とした議論が行なわれることとなりました。このパネルは、プロジェクト・メンバーでもあるG.M.ヴィーサル教授と私(野口)がオーガナイザーとなります。インド、イギリス、アメリカ、スペインなどの研究者を招聘して、1)南アジアの前期~中期旧石器時代、2)南回りルートの現代人の拡散、3)更新性後半~完新世初頭の砂漠環境の変化と人類の適応、の3つのセッションを設ける予定で、現在、プログラムの調整を開始したところです。
 わたしたちのプロジェクト自体ははじまったばかりで、まだ議論に供することのできるデータは乏しいのですが、この機会に多くの研究者に遺跡や資料を見ていただき、今後の調査に向けて有意義な議論を深めるとともに、プロジェクトをひろく周知する機会になればと期待しています。
 今後、新たな情報が入り次第、ここで報告して行きたいと思います。
 なお、本国際会議では、開催時に論文集も同時刊行される予定です。 

(以下、趣旨説明)
 インダス考古学は、探査、発掘を通じて収集される情報とともに、最新の手法による出土遺物や遺構の分析、解読によって加えられる知見により、つねに変化している。分析技術の進歩は、過去の生活をより具体的に解き明かし、社会や文化の多様性と地域性を、集団や行動のレベルで説明することを可能にした。その上で今、すべての新発見を一同に会し、一連の歴史として捉えること
必要とされています。今般の国際会議では、いくつかのパネルがそれぞれ異なるテーマに焦点を当て、研究の進展を明らかにします。
 現在、パキスタンに属するインダス川流域は、西アジア、中央アジア、そして南アジアの交差点として、人類の出アフリカにおける重要な位置を占めていました。旧石器時代の人々がユーラシアを東へと進もうとしたとき、峻険なヒマラヤ山脈により可能なルートは南北に分割されます。そのうち南側のルートを辿った人びとは、必ずやパキスタンにその足跡を残したでしょう。人類拡散の痕跡は、研究者たちによりその文化的側面が詳細に説明されるでしょう。そして長きにわたる石器時代の最後に新石器時代の文化変化が起こり、都市文明へと続くのです。
 新たに発見、調査された都市遺跡は、非常に豊かな生活スタイルと文化的複雑さを明らかにしつつあります。長距離交易による商品は市場に蓄積されました。銅、宝石、海産の貝などは、テラコッタ、ファイアンス、装飾された宝石や金属製品などの工芸品とともに流通して文化の一部となるとともに、古代南アジアの都市からの訪問者を魅惑しただろう。交易従事者は、テラコッタもしくは金属製のパスポートを識別と認証のために与えられ、そこに刻まれた記号によりメッセージが確認されただろう。インダスの文化は、確実にある水準に達していたのである。今まさに、研究者たちはそれぞれの新たな発見を持ち寄り、共有し、議論するときである。それは、まだ解明されていないインダス文明の実態を明らかにするための重要な機会となるだろう。シャー·アブドゥル·ラティーフ大学の当局は、インダス考古学の進展に貢献するすべての研究者を歓迎します。
 なお今般の会議は、1)石器時代の考古学、2)グジャラート、ラージャスターンの考古学、3)インダスの考古学、4)インダス文明後の考古学の4つのパネルで構成される予定です。

(1) Archaeology of Stone Age, Organized by  NOGUCHI Atsushi and G.M. Vessar
(2) Archaeology of Gujarat and Rajasthan; organized by Prabodh Shirvalkar and Rajesh S.V.
(3) Archaeology of Indus land Organized by Q. H. Mallah and J.M. Kenoyer
(4) Archaeology of Post Indus to onwards organized by Mastoor Bukhari and Tasleem Abro.
(写真は、今年2月に竣工したばかりのシャー・アブドゥル・ラティーフ大学の中央校舎。学長室や会議室など最新の設備があるので、たぶん国際会議はここで開催されるのではないかと。左は、Q.H.マッラー教授。国際会議開催の中心人物)

2012/08/21

ラオスの洞窟遺跡で~4万6千年前の解剖学的現代人が出土(PNAS)

 「南回りルートの考古学」シリーズの下書きが途中のまま、また新しいニュースです。
 東南アジアはラオスのタン・パ・リン(Tam Pa Ling)洞窟における、フランス・アメリカ・ラオス・オーストラリアの研究者からなるチームが、大陸部では最古級の現代人ホモ・サピエンスの化石を発掘したと、8/20付(日本時間では8/21)のアメリカ科学アカデミー紀要(PNAS)電子版に発表しました。原著論文はこちら:F. Demeter, L. L. Shackelford et al. (2012) Anatomically modern human in Southeast Asia (Laos) by 46 ka, PNAS, doi: 10.1073/pnas.1208104109(本文閲覧は有償またはログインが必要です)
 第2著者の所属するイリノイ大学のリリー(Lao skull earliest example of modern human fossil in Southeast Asia)には出土した頭骨などの画像が掲載されています(下の写真)。またスライドショーで、遺跡の景観や発掘調査風景、層序や年代などを見ることができます。ぜひご覧ください(なお原著論文のSupporting Informationにも同じものが掲載されています。PDF版、閲覧・ダウンロードはフリー)
 洞窟内の写真を見ると、最奥部が急激に落ち込んでいて、その部分の表層から2.35m掘り下げたところから人骨が出土しているようです。トレンチは、ほとんど縦坑の様相です。
 年代は、人骨出土位置の上下の堆積物の14CおよびOSL年代測定から、5.1~4.6万年前、骨自体のウラン・シリーズ法による測定値は最大6.3万年前ということです。新しい方の年代でも、これまで東南アジア最古だった、マレーシア・ニアー(Niah)洞窟下層と匹敵するかそれよりも古くなる可能性がありますし、古い方の年代は、調査者らが強調しているように、遺伝学的に推計されている南アジア・東南アジアへのホモ・サピエンスの進出年代にほぼ重なる数値です。しかも、中国南部に近く東アジアへのサピエンスの進出を考える上でも重要な場所ですね。
 しかし洞窟の写真を見ている限りでは、居住遺跡とは思えないですね。どのような石器を使い、どのような生活をしていたのか、それが分かるような資料は出土しているのでしょうか。

 ちなみにこの遺跡、昨年11~12月に国立科学博物館で開催された国際シンポジウム「旧石器時代のアジアにおける現代人的行動の出現と多様性」でも発表されていましたね。その時はまだ、今回人骨が出土した深度まで到達していなかったと思います。シンポの後、またフィールド調査だとおっしゃっていたので、まさにその時に出土したのでしょうか?

2012/08/18

インド考古研究NEWS

 先般刊行された『インド考古研究』33号に、2012年春季調査の概要がNEWSとして掲載されました。

  • 野口 淳・小茄子川歩 (2012) PJAM/パキスタン-日本考古学共同調査2012-1 ヴィーサル・ヴァレー地区旧石器時代遺跡群予備調査・インダス式印章資料調査.インド考古研究,33:74-79.インド考古研究会(神奈川・平塚)
 『インド考古研究』(ISSN0910-0326)は、インド考古研究会が編集・発行している、日本唯一の南アジア考古学・美術史の専門誌です。今回、研究会のご好意でPDFファイルを提供していただきましたので、ウェブ・サイトのダウンロード・ページにアップロードしました。よろしければ、ご覧下さい。

 なお『インド考古研究』の同じ号には、プロジェクト・メンバーでもあるカシード・マッラー、シャー・アブドゥル・ラティーフ大学(SALU)教授らによる、最近のシンド州北部における考古学調査の動向に関する論文(英文)も掲載されています。

  • Q. H. Mallah, N. Shaikh, G. M. Veear, H. Kondo & T. Abro (2012) An Overview o the Recent Archaeological Research in Northern Sindh, Pakistan. Indo-Kōko-Kenkyū (Studies in South Asian Art and Archaeology), 33: 19-38.

ヴィーサル・ヴァレー地区を含む旧石器時代の遺跡から、インダス文明期の都市遺跡ラカンジョ・ダーロ(Lakhan Jo Daro)、タール砂漠で発見されている先文明~文明期についても紹介されています。興味のある方は、インド考古研究会までお問い合わせください。また六一書房さんからも購入できると思います(8/17現在、最新刊についてはHP未掲載)。

 ヴィーサル・ヴァレー地区の予備調査の成果と見通しについては、すでに日本旧石器学会の会誌、『旧石器研究』に投稿、掲載されています。『旧石器研究』については、日本旧石器学会にお問い合わせいただくか、また六一書房さんからも購入できると思います(8/17現在、最新刊についてはHP未掲載)。

  • 野口 淳・G.M.ヴィーサル・Q.H.マッラー・N.シェイフ・近藤英夫 (2012)  パキスタン・イスラム共和国シンド州ヴィーサル・ヴァレー地区の中期・後期旧石器時代資料. 旧石器研究, 8:169-179.日本旧石器学会(東京).
 上掲論文を含め、プロジェクトの成果に関する発表資料等についてはウェブ・サイトの資料庫ページに掲載していきます。ご参照下さい。
 また現地における調査の経過などは、追って本ブログやウェブ・サイトで紹介したいと思います。砂漠における旧石器遺跡の調査の様子など、ご期待ください。
 最後に、2012年春季調査の参加メンバー(一部)の写真です。写真中央の筆者(野口)を挟んで、左がG.M.ヴィーサル教授(SALU考古学研究室、考古学・人類学博物館長)、右がQ.H.マッラー教授(SALU考古学研究室主任)です。2012年2月23日撮影。

 みな、それなりに着込んでいますが、日中は20~25℃くらい、そして遮るものがないのでペットボトルを日向に置きっ放しにしておくと30分で60℃のお湯になるくらいでした。さて、9月後半に予定している夏季調査は、いったいどうなるのでしょうか?

2012/08/17

お知らせ

設定ミスでログインしないとコメントを書き込めないようになっていました。設定を変更しましたので、是非コメントを(^_^)

2012/08/16

南回りルートの考古学-分かっていること/分かっていないこと(3)

 南アジアの旧石器時代研究は、19世紀にはじまる長い歴史を持つ一方で、ヨーロッパ、西アジアを基準として組み立てられてきた枠組みとあわない部分が多く、編年、時代区分、年代といった基本的な部分についての論争がいまだに続いています。
 現代人ホモ・サピエンスの出現に関わる中期/後期旧石器時代に関しては、まず、典型的な(=ヨーロッパ、西アジアと共通すると言う意味での)中期旧石器時代が捉えられていませんでした。また後期旧石器時代についても、やはりヨーロッパ、西アジア的な石刃石器群が見つかっていません。代わりに、新しい細石器(幾何形細石器、日本で言うところのナイフ形石器に共通した特徴をもつ)が2万5千年前頃から出現し、氷河時代が終わった後も続くということが分かっていました。
 ところがその後、スリランカのファ・ヒエン洞窟(Fa Hien Cave)で、現代人ホモ・サピエンスの人骨と一緒に出土した細石器が3万2千年前まで遡ることが14C年代測定により明らかとなりました。同じ頃、南アフリカではハウィソンズ・プールト(Howiesons Poort)文化の細石器が従来考えられていたよりもはるかに古く、8~7万年前まで遡ることが明らかとなっており、またヨーロッパ南部などでは後期旧石器時代の初頭(4~3.5万年前)に細石器が現われることから、現代人ホモ・サピエンスの登場の示標として注目されるようになっていました。

画像:南アフリカ、ハウィソンズ・プールト(Howiesons Poort)文化の幾何形細石器(クラシエス川遺跡:Krasies River)、Mellars (2006) PNAS vol.103, fig.4.
  しかもスリランカの遺跡や、それ以前に発掘されていたインド中部のパトネ(Patne:2.5万年前)遺跡では、ダチョウの卵殻や石製のビーズ、前回画像を紹介した南アフリカの線刻赤土とよく似た異物なども出土していました。これらに注目した、イギリスのマイケル・ペトラグリアらは、一連の資料を南アジアにおける現代人の出現を示すものであるという論文を2005年に発表しましたJames, H.V.A. & Petraglia, M.D. (2005) Modern human origins and the evolution of behavior in the later Pleistocene record of South Asia. Current Anthropology, 46: S3-S27:JSTOR、論文の閲覧にはログインが必要)
。また現代人の世界への広がりについての大家にして「南回りルート」の強力な支持者でもあるイギリスのポール・メラーズは、この発見が、アフリカから南アジア、そしてオーストラリアをつなぐものであると論評しましたMellars, P. (2005) Going East. Science, 313: 796-800:本文閲覧は有償またはログインが必要)。
 簡潔に模式化すると、以下のとおりです。

アフリカ南部アフリカ北部レヴァントアラビア南アジア東南アジアオーストラリア
12万年前石刃
細石器
ルヴァロワ*ルヴァロワ(未到達)
8万年前石刃
細石器
ルヴァロワルヴァロワ(未到達)
6万年前石刃
細石器
ルヴァロワ*ルヴァロワ(未到達)
4万年前石刃
細石器
ルヴァロワルヴァロワ不定形石器不定形石器
3万年前石刃
細石器
ルヴァロワ石刃
細石器
石刃
細石器
不定形石器不定形石器
*ルヴァロワというのは、ヨーロッパ~西アジア~北アフリカの中期旧石器時代に特徴的な石器づくりの技術です。詳しくは、次回以降に解説する予定です
**表の枠の背景色は化石人骨の違いを示します。青:現代人、緑:ネアンデルタール人、黄色:原人(ホモ・エレクトゥス)

 さて、この時点ではレヴァント(西アジア地中海沿岸)より東側の不連続が目立ちますね。ただしそれは、情報の不足によるものでした。「南回りルート」がにわかに注目を集めたのは、その空白部分をいかにして埋めるかということへの期待からです。
 そして実際に、アラビア半島からインド、東南アジアの各地で発掘調査が盛んに行なわれるように成りました。

2012/08/15

ネアンデルタールとホモ・サピエンスの悩ましい関係

画像:ネアンデルタール(左:フランス、ラ・シャペル・オー・サン洞窟)とホモ・サピエンス(右:イスラエル、スフール洞窟)の頭骨、PastHorizonsの記事より.ソース:Wikimedia commons 左: http://en.wikipedia.org/wiki/File:Homo_sapiens_neanderthalensis.jpg,右: http://en.wikipedia.org/wiki/File:Skhul.JPG

 引き続き「南回りルート」の考古学について解説を用意していたのですが、またまたニュースが飛び込んできました。アメリカ科学アカデミー紀要(The Proceedings of National Academy of Sciences: PNAS)の電子版に8/14付で、現代人ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の交配関係を見直すという趣旨の論文が掲載されました

  • A. Manica (2012) 
  • Effect of ancient population structure on the degree of polymorphism shared between modern human populations andancient hominins. PNAS, doi:10.1073/pnas.1200567109)*英文、本文の閲覧は有償またはログインが必要
     現代人とネアンデルタール人の関係は、後者の化石人骨から抽出されたDNAの解析によって、いったんはまったく別の系統であり交配はなかったとされたのですが、その後、DNAの部分ではなく全体が解析されるに至って、両者の間に1~4%の共通する遺伝子があることが明らかになりました。そして、遺伝子の共有が現代人の誕生地であるアフリカの集団には見られず、アフリカ以外の集団には見られることから、先に分化した現代人とネアンデルタール人が、現代人の出アフリカ後に再び遭遇して交配したことにより、遺伝子の一部を再共有するに至った、という交配説が示されました。わずか2年前のことです。
     考古学的には、西アジアや北アフリカでは、ネアンデルタール人と現代人がそれぞれ作った石器が良く似ていることや、現代人がヨーロッパに進出した4~3万年前、共存していたネアンデルタール人の石器や装身具に変化が起こって現代人の技術を取り入れているように見えることなどが以前から指摘されていたので、交配説は急速に受け入れられたように見えました。
     一方で、両者に共通する遺伝子が、後の交配によるものではなく、共通祖先からそれぞれが受け継いだものなのではないか、という疑問、批判もあったようです。
     今回の論文は、まさにこの部分を指摘したもので、専門外の私には細かな数式、統計や遺伝学の原理を解説することはできませんが、アフリカ以外の現代人とネアンデルタール人との間の遺伝子の共有は、人口の構造や移動によって説明できるということのようです。
     いずれにしても、この論文が決定打と言うわけではなく、ネアンデルタール人と現代人との関係をめぐる議論は、まだしばらく決着がつかないのではないか、という状況でしょう。

     それにしても、この記事をみて思うのは、いっときブームを起こしたJ.ダーントンのエンターテイメント小説です。スピルバーグ監督で映画化が構想されるも、中央アジアの山中に生き残っていたネアンデルタール人と、主人公の助成人類学者の間にロマンスが...というくだりがその後の遺伝的関係の否定によって成り立たなくなったために映画化はお流れになった、という都市伝説?を聞いたことがあるのですが、研究が進むたびに、2人の関係は揺れ動き続けるようですね。
     さて、決着はいかに?

    2012/08/14

    南回りルートの考古学-分かっていること/分かっていないこと(2)

     それでは、一筋縄ではいかない、と予告した考古学資料について、少し解説しましょう。
     少し前までの教科書や概説書は、きわめてシンプルでした。だいたい、以下のようになっていたと思います(上から下に向かって新しくなります)。

     ・前期旧石器時代-礫石器・石核石器-原人
     ・中期旧石器時代-剥片石器     -旧人
     ・後期旧石器時代-石刃石器・細石器-新人
     これらの旧石器時代は、いまから1万年以上前の氷河時代に、いまでは絶滅してしまった動物(マンモスや毛サイ、オオツノジカなど)と人類が共存していた時代です。そして、骨角器や洞窟壁画、マンモスの牙製のヴィーナス像などの発達した技術や芸術は、後期旧石器時代=新人の時代に出現したと考えられています。
     その後、1万年前以降、西アジアで土器の使用や農耕がはじまって、磨製石器を使う新石器時代になりました。

     しかしながら...現在、この解説には変更が必要です。もともと、この解説はヨーロッパと西アジアを中心に組み立てられたものでした。このため、2つの地域では大きな変更は必要とされていません(年代については、年代測定法の進歩とともに書き換えられていますが)。
     一方で、アフリカやアジアなど世界各地で調査が進むにつれて、この枠組みでは説明がつかないことが多数発見されたのです。
    画像:南アフリカ・ブロンボス洞窟出土の骨角器(手前),線刻のある赤土塊(中央:最古の芸術品),石器,8~7.5万年前,出典:Wikimedia commons (http://en.wikipedia.org/wiki/File:BBC-artefacts.jpg) *英語版のみ

     ところが、アフリカでも北側(エジプトやエチオピアなど)では、同じく12~8万年前には現代人ホモ・サピエンスが現われているのですが、彼ら/彼女らは、従来中期旧石器時代のものとされてきた石器を作っていたようです。さらに西アジアでも...12万年前に現われ、その後に消えてしまった現代人ホモ・サピエンスと、その後に現われたネアンデルタール人が作った石器の間には、多少の違いはあるのですが、全体として中期旧石器時代の技術で作られています。
     したがって、人骨化石が出土しなかった場合、石器だけから、その製作者が現代人なのかネアンデルタール人なのかを見分けるのはとても難しい状況です。ちなみに、西アジアで石器に大きな変化があらわれるのは、4~3万年前、つまり後期旧石器時代のはじまりの時です。

     そして西アジアより東側、南アジアや東南アジア、オーストラリアなどではもっと状況は複雑です。
     南アジアでは、西アジアやアフリカと共通する後期旧石器時代的な石器(細石器)や骨角器、ビーズなどの装身具が4~3万年前以降、現代人ホモ・サピエンスの人骨化石とともに出現します。
     東南アジアやオーストラリアでは、5~4万年前以降、現代人ホモ・サピエンスの人骨化石が出現しますが、骨角器やビーズはまだ見つかっていません。作られた石器は、アフリカ、西アジア、南アジアなどの後期旧石器時代の石器とはまったく似ていません。

     もう一度整理しましょう。
     遺伝学の成果によると、現代人ホモ・サピエンスは12~8万年前にアフリカを旅立ち、「南回りルート」で6~5万年前ころには南アジアに到達して人口を増やし、アジアやオーストラリアまで広がったということになります。
     人類学の成果によると、確実な現代人ホモ・サピエンスの化石人骨は、5~4万年前以降、南アジア、東南アジア、オーストラリアに現われます。
     考古学の成果によると、アフリカや西アジアと共通する後期旧石器時代的な石器・骨角器・装身具は4~3万年前に南アジアに現われますが、東南アジアやオーストラリアでは見つかっていません。

     もっとも確実なのは化石人骨を発見し、可能ならばそこからDNAを抽出して遺伝学の成果と比較することです。しかし、人骨が見つからなければ考古学の成果に頼るしかありません。しかし北アフリカや西アジアの例を見ても分かるとおり、現代人ホモ・サピエンスの出現は、かならずしも石器などの技術の変化とは一致しないようです。
     そこで、上記のような分野ごとの食い違いを乗り越えるために、いっそうの発掘調査が必要とされているのです。人類進化と現代人のグレート・ジャーニーへの考古学の貢献とは...世界各地で地道な発掘調査を続け、いつ・どこに・どのような考古資料(石器やほかの遺物)があるかを整理することです。考古学では、これを「編年」と呼びます。
     編年が整ったところで、化石人骨や遺伝学の成果をそこに重ね合わせれば、考古学上のどのような変化が、人類学や遺伝学が見出した変化と関連するのかどうかが分かるでしょう。考古学者が取り組むのは、このような研究なのです。

     次回は、南アジアと、そこに至る南回りルート上での考古学的発見について紹介しましょう。


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    2012/08/13

    南回りルートの考古学-分かっていること/分かっていないこと(1)

     前回は、現代人のグレート・ジャーニーにおける「南回りルート」について、概要を記しました。繰り返しに成りますが、現代人ホモ・サピエンスが世界各地へ広がっていったルートについて、現在、もっとも注目されているのが「南回りルート」です。
     たとえば、S.オッペンハイマー著『人類の足跡10万年全史』という本の中では、かなり具体的に年代とルートが記されています。いわく、8万5千年前にアフリカの外へと旅立った現代人は、アラビア半島を経由して南アジアへ到達し、そこから世界各地へとさらに広がっていった。たとえばあるグループは、(現在のパキスタン・シンド州~パンジャーブ州の)インダス平原から北上して中央アジアやヨーロッパ方面へ向かった...云々とあります。
     では、実際のところ、このストーリーはどの程度、実証されているのでしょうか?
     まずはじめに、この本に限らず、「南回りルート」は基本的に遺伝学の研究成果として提起されていることに注意しておかなければなりません。肝心の化石人骨は、現在(2012年8月)までのところ、すべて5~4万年前より後のものが、ルートの後半にあたるスリランカ、マレーシアのボルネオ島、オーストラリアで見つかっているだけです。8万5千年前~5万年前の、アラビア半島から南アジア(インド・パキスタン)にかけての地域では、まだ化石人骨が見つかっていません。
     このため、具体的にどのような人類、集団が、いつ、どこにいたのかを、実際の資料から確かめるには至っていないのです。
     もちろん、多くの研究者が、その時代の化石人骨を探し続けています。わたしたちもあわよくば...と夢見たりもするのですが、一般的に熱帯地域は人骨が残りづらい環境条件下にあります。洞窟遺跡や、何らかの理由で急速に埋まった遺跡、しっかりとした埋葬の跡などが見つかればよいのですが、なかなか見つかりません。
     はっきりとした理由はまだ分かりませんが、南アジア~東南アジアにかけての地域では、現代人以前、すなわち中期旧石器時代以前に遡る洞窟遺跡の数はきわめて少ないのです。地形や気候の条件と、人類の暮らし方、住まい方が、より緯度が高く冷涼な地域と異なっていたのかもしれません。
     ということで、次善の策として、というよりほかに手がかりがないので、考古学資料、つまり遺跡とそこに残された遺物-この時代の場合はほとんど石器です-が重要になってくるわけです。しかしながら、こちらもまた一筋縄にはいかないわけで...
     続きは、また次回。お楽しみに。

     関連する内容について、ウェブサイトでも解説しています。
     また、以下の関連書籍もご参照ください。

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    2012/08/12

    現代人のグレート・ジャーニー-「南回りルート」とは?


     さて、前々回(8/10)のポストでは、ヴィーサル・ヴァレー・プロジェクトの目的が、アフリカに誕生した現代人ホモ・サピエンスが、世界各地へと広がっていく「グレート・ジャーニー」の足跡を解明することにある、と締めくくりました。
     しかし、何故パキスタンなのか? ということについては、なかなかピンとこない方が多いと思います。しかし、人類学、考古学の分野では、今、パキスタンを含めた南アジアが大いに注目されているのです。
     それは、現代人が世界各地へ広まっていく過程で、「南回りルート」が重要な役割を果たしたと考えられているからです。

     現在、アフリカとアジアとの間は、エジプト北東部のスエズ半島から、イスラエル、パレスチナといった西アジアの地中海岸へと抜ける狭い連絡路があるのみです。そして、世界的に海面が大きく低下した氷河時代(最大でマイナス200m近く低下した)でも、状況は変わりませんでした。
     それならば、現代人ホモ・サピエンスがアフリカを出て世界へ広がっていったルートも、ここに決まりじゃないか? と考えたくなるところですが...
     確かに、イスラエルの遺跡(スフール洞窟)では、アフリカ大陸の外では最古の、現代人の人骨化石が発掘されています(約12万年前)。ところが、一帯は8万年前以降、おそらくヨーロッパからなんかしてきたと考えられるネアンデルタール人の居住地となります。また、アジア、ヨーロッパでは、4万年前より古い現代人の人骨は見つかっていません。
     このことから、12万年前に西アジア沿岸地方(レヴァント地方とも呼ばれます)に進出した現代人は、そこから先へ進むことはできずに、滅びたかアフリカへ戻ってしまったのではないかと考えられるようになりました。

     一方、それとは別に、遺伝学の研究が進むと、アフリカ以外の世界各地の集団が、アフリカの集団から分岐したのは8~6万年前ころではないか、と計算されるようになりました。ところが、肝心の時代(8~6万年前)、アフリカと陸続きだった西アジア沿岸、レヴァント地方はネアンデルタール人が暮らしていました。同じ時代の現代人の化石は見つかっていません。
     ということで、レヴァント地方は出アフリカ(アウト・オブ・アフリカ)のルートとは考え難いだろう、ということになりました。それでは、いったい?

     そこで注目されたのが、東アフリカから、紅海を越えてアラビア半島に至る「南回りルート」です。ここには、バーブ・エル・マンデブ海峡があって、氷河時代でも20~30kmの海を越えなければならいルートだったようですが、しかしここが有力視されるには、2つの理由がありました。
     1つめは、オーストラリア最古の現代人化石の年代が5万年前まで遡ることが明らかになったこと。そしてもう1つは、アフリカ以外の世界各地の集団の遺伝学的な故郷のひとつが南アジアではないかと推測されたことです。
     こうして、8~6万年前にアフリカを出た現代人は、「南回りルート」を経て、わずか1~3万年くらいの間にオーストラリアにまで至った、また南アジアで人口増加が起こってそこから世界各地へと分散していったとする学説が提起されたのです。とくに、海岸沿いのルートこそがもっとも移動しやすく、短期間に現代人が広まっていったのだということを強調する研究者は「沿岸特急:coastal express」という用語を使うこともあります。

     さて、これで察しの良い方はお気づきになったでしょう。
     そうです、わたしたちの調査地、パキスタン・シンド州は、その「南回りルート」の途上、それも海岸よりにあるのです。

     現代人の出アフリカについては、ウェブ・サイトでも解説しています。
     また関連して、以下の書籍などもご参照ください。

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    2012/08/11

    -新刊紹介-ネアンデルタール人奇跡の再発見(小野 昭著)

     前回の投稿に引き続き、プロジェクトの調査の背景についてご紹介しようと考えていたのですが、ちょうど、関連する新刊書籍が届きましたのでそちらを先に紹介させていただきます。


     小野 昭著『ネアンデルタール人 奇跡の再発見』朝日新聞社(朝日選書891:ISBN978-4-02-259991-9)です。奥付では、2012年8月25日刊となっていますが、今日(8/11)現在、Amazon.co.jpでも購入可能になっています(書店ではまだ確認してません、スミマセン...)。
     著者は、明治大学黒曜石研究センター特任教授で、日本旧石器学会会長、日本第四紀学会副会長をつとめられています。また長年、ドイツ各地の研究者と交流を重ねて、現地へも足しげく訪れられているということで、本書でも、そうした交流と現地調査の成果が随所に表れています。
     さて、そんな本書の内容ですが...なにぶん、本日手もとに届いたばかりですので(ありがとうございます)、ざっと概要だけ...
     ドイツ・ネアンデル渓谷(つまり、ネアンデル・タール)で発見された最初のネアンデルタール人の人骨化石は、ネアンデルタール人とはどのような人類であったかを説明するための重要な基準資料です。表紙カバー上部に掲載された、眉の上が強く盛り上がり、頭のてっぺんが平たく後頭部がでっぱった頭蓋骨の写真やイラストは、みなさんも繰り返し目にしたことがあるのではないかと思います。
     ところがこの人骨化石、かんじんの年代や、どのような石器やそのほかの生活の痕跡と一緒に出土したのかがまったく分からなかったのです。と言うのも...遺跡自体が、化石人骨の発見後に石灰岩の採掘によってほとんど消滅してしまったからです。
     しかしそのような状況にもかかわらず、100年以上経った後のドイツの研究者たちは、わずかな手がかりから出土遺跡の場所を突き止め、そこに辛うじて残されていた遺跡の一部分を詳細に発掘調査しました。これによってようやく、オリジナルのネアンデルタール人についていろいろと詳しく知ることができるようになったのです。
     本書は、その経緯を詳しく紹介するとともに、そもそもなぜ、わざわざこのような調査がなされなければならなかったのかという前提、背景、そして調査や分析の方法などにも詳しく言及しています。手軽な装丁、サイズですが中身はぎっしり。専門の方はもちろん、人類の進化や旧石器時代の考古学に多少なりとも興味がある方にお奨めです。
     もちろん、わたしたちにとっても...「...基礎条件を欠いた資料は、たとえ資料自体が素晴らしいものであっても、資料的価値はきわめて低い。」(p.5:プロローグより)という言葉をしっかりと胸に刻んで、現地調査に臨みます。これからも追って紹介しますが、わたしたちの調査地ヴィーサル・ヴァレーには、素晴らしい石器がこれでもか!と落ちているのですが、ただ面白がってそれらを拾い集めるだけでは考古学にならないのですから。

    2012/08/10

    ヴィーサル・ヴァレー・プロジェクト 調査の目的


     なぜ、わたしたちはパキスタンで調査をしているのでしょうか? なにを調査しているのでしょうか?
     わたしたちは、アフリカに誕生した現代人ホモ・サピエンスが、世界各地へと広まっていった「グレート・ジャーニー」の足跡を探しています。
     人類の進化については、毎年のように新たな発見があり定説が塗り替えられています。20年以上前の教科書には、アフリカに誕生した猿人が原人に進化し、アジアやヨーロッパに広がり、各地で旧人から新人に進化した、と書かれていたのではないでしょうか?
     しかし遺伝学の進歩と化石人類学とが結びついて、1990年代以降は、現代人の祖先は約15~12万年前にアフリカで誕生し、その後、世界各地へ広がり、アジアやヨーロッパではそれ以前に暮らしていた原人や旧人と交代したとされています。
     遺伝学の研究は、現代人がもっている遺伝的な変異、多様性が分岐していった年代(ここでは、母親からだけ引き継がれるミトコンドリアDNA)を逆算して、分岐のおおもとがいつ起こったのかを計算します。また多様性が大きな地域ほど、早くに分岐がはじまった=変化の出発点だったと考えるわけです。そして、アフリカに現代人の共通祖先となる女性がいたはずだとする「ミトコンドリア・イブ」仮説が唱えられました。
     一方、化石人類学では、アフリカから、ほかのどの地域よりも古い現代人の特徴を持つ人骨(解剖学的現代人と言います)が見つかることが知られていました(アフリカでは10万年前より古い<>アジアやヨーロッパでは4~3万年前)。この2つの成果が組み合わさり、現代人のアフリカ単一起源説が成立したのです。
     そうなると、次の疑問は、アフリカから世界へ、いつ、どのように現代人ホモ・サピエンスが広がっていったのか、です。時はまさに、最新の氷河時代(8~1万年前)です。人類の壮大な旅、グレート・ジャーニーのはじまりです。

     わたしたちの調査地、ヴィーサル・ヴァレーには、そうした現代人のグレート・ジャーニーの足跡が残されています。その年代や、人びとの暮らし、他の地域とのつながりを知るための手がかりを得ることが、わたしたちの調査の目的なのです。

     ヴィーサル・ヴァレー・プロジェクトの調査の目的については、ウェブ・サイトをご覧下さい。

    2012/08/09

    はじめまして

    みなさん、こんにちわ。
     わたしたちは、現在、パキスタン・シンド州に所在するヴィーサル・ヴァレー旧石器時代遺跡の調査プロジェクトに取り組んでいます。プロジェクトは、今年2012年に始動したばかりですが、現代人ホモ・サピエンスが、アフリカを旅立って世界各地へと広がっていった「グレート・ジャーニー」の解明に寄与できるものと考えています。
     調査プロジェクトの概要と成果(まだ、これからですが)については、新たに開設したウェブ・サイトで紹介していきます。このブログでは、調査や分析の経過、そのほか関連情報を逐次、紹介していきたいと思います。
     ヴィーサル・ヴァレー・プロジェクト ウェブサイトはこちら